江戸時代の本町通と碁盤割
江戸時代の碁盤割
徳川家康は、名古屋城の南を碁盤の目のように区画し町人の住居としました。そのほぼ中心を名古屋城から熱田まで南北につながる本町通を建設。碁盤割内の本町通界隈は、名古屋の商業の中心地として沿道には、名古屋を代表する大店が店をつらねていました。とくに名古屋城に近い本町通付近には、いとう呉服店、大丸、十一屋などがあり、東照宮祭の祭礼には、碁盤割町内の山車行列が行われ多くの見物人でにぎわいました。
詳しくは下記の解説と関連映像(解説下)をご覧ください
茶屋町伊藤呉服店
慶長16年(1611)、織田信長の家臣伊藤源左衛門祐道が名古屋の本町で呉服小間物商を始めました。その後、万治2年(1659)祐道の遺児・祐基が茶屋町に呉服小間物問屋を開業。「現金売り正札付き掛け値なし」の商法は庶民の支持を受けました。明和5年(1768)上野の松坂屋を買収、いとう松坂屋と改めました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
東照宮祭でにぎわう魚の棚通
堀川東岸の木挽町、久屋町筋(東西を走る道を筋と呼んだ)には魚を売る店が多く魚の棚と呼ばれていました。東照宮の祭礼の十六日には見物客相手に弁当などを販売しました。家ごとに提灯を掲げ、魚の棚通は通行人でごった返しました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
桜天満宮
織田信秀(織田信長の父)が京都の北野天満宮に参詣したとき、夢枕に現れた菅原道真のお告げに従い創建したといわれています。神木に桜の大樹が多かったので桜天満宮と呼ばれました。現在、敷地は縮小されましたが桜通の南側に面して鎮座しています。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
本町通三丁目
本町通は、名古屋城と熱田を結ぶ基幹道路として名古屋城築城とともに誕生しました。碁盤割と呼ばれる城下を碁盤の目のように区画された中心を南北にはしり、本町通三丁目は碁盤割の中心部に位置していました。毎年二月二十五日には桜天満宮祭礼が開かれ、祭礼の前後の三日間は植木市が開かれました。近隣の村からも植木を売る村人が店を並べまるで森の中を歩くような錯覚におちいりました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
本町通四丁目
本町通は、名古屋城と熱田を結ぶ基幹道路として名古屋城築城とともに誕生しました。碁盤割と呼ばれる城下を碁盤の目のように区画された中心を南北にはしり、本町通四丁目を南に下ると碁盤割の南端広小路に交差します。名古屋城下でもっとも賑やかな地域でした。大丸の店の前では毎年二月二十五日桜天満宮祭礼前後の三日間に植木市が開かれました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
本町六丁目 小見山宗法店
紀州和歌山の浅野幸長の家臣であった小見山家は、幸長の娘春姫が尾張藩祖徳川義直に嫁いだのをきっかけに尾張藩に随行しました。後に、尾張藩医となった小見山宗法は、尾張藩の筆頭の薬屋として繁盛したといわれています。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
医学館薬品会
浅井家は尾張藩の侍医を勤めるかたわら、医学館という医学塾をつくり医師の試験も行っていました。 毎年六月十日に万国の物産や動物を公開し、多くの見物人を集めました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
広小路本町夕景
徳川家康は名古屋城下建設時、名古屋城の南の区域を碁盤の目のように区画し「碁盤割」と呼びました。広小路ができる前は堀切筋と呼ばれ道幅三間(3.64m)の狭い道でした。万治3年(1660)万治の大火と呼ばれる大火事が発生し城下町の大半を焼き尽くし、それを契機に久屋町から長者町までの区間が4倍以上拡幅され広小路が建設されました。以後、現在にいたるまで名古屋を代表する道として使われています。夏の夜は涼を求めて多くの人が芝居、物まね、居合抜きの芸を夜が更けるまで楽しみました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
掲載映像の紹介
掲載映像の解説
①地図で見よう!江戸時代の碁盤割 (40sec)
江戸時代の名古屋城下の碁盤割周辺をCGで紹介しています
②清須越しと碁盤割(4min02sec)
戦国時代、尾張の首都は清洲にありました。人口は6~7万人、関東最大の都市でした。 1610年徳川家康はへの豊臣方への決戦に備えて、名古屋に尾張の首都を移しました。「清洲越」と呼ばれています。名古屋城下建設にあたり家康は中心部を碁盤の目に区画しました。名古屋の歴史に関する著作の多い、沢井鈴一さんに語っていただきました。
③尾張名所図会で見る東照宮祭(2min32sec)
東照宮祭の山車引きは、江戸時代にはじまり先の戦災で山車のほとんどが焼失するまで行われた名古屋最大の祭りです。名古屋城から本町通を南下して御旅所まで練り歩きました。尾張名所図会には、そのいきいきとした様子が描かれています。白黒の原版にデジタルでイメージ着色して紹介しています。