南寺町とその周辺の今
南寺町と周辺の今
名古屋城下が出来たころ、広小路(かっての堀切筋)をはさんで北と南では町の様相が一変していました。南側の白川、大須、橘町にいたる本町通の両側には大小の寺院が建設され人家もまばらな地域でした。広小路本町の南側には、獄舎もおかれていました。今の白川公園一帯には、終戦(1945年)間際に移転するまで多くの寺院が集積していました。その南の大須付近には、町の活性をはかるため尾張藩は、芝居小屋や遊郭の設置を認め人口の増加をはかりました。明治、大正、昭和そして平成の現在も庶民の娯楽の町としての性格がつくられました。大須の南にある西別院は、葛飾北斎が境内で、120畳敷きの達磨の大画を描き注目を集めたことで知られています。二代藩主光友に銘々された橘町は、名古屋城下の南端に位置し、本町通には大木戸が設置され夜になると閉門されました。そのころには、橘町に処刑場がありキリシタンの処刑が行われたことで知られています。光友は処刑場を土器野(現清須市)に移し、芝居小屋橘座をつくり町の活性をはかっています。城下の南端に位置する東別院は織田信長の父信秀の居城「古渡城」のあった所、1690年に尾張藩主徳川光友から土地の寄進を受けて建立されました。現在でも橘町の本町通沿いには仏具を扱う店が多く、かっての寺町を彷彿させています。
-詳しくは下記の解説と関連映像(解説下)をご覧ください-
名古屋市美術館
北川民次、三岸節子、荒川修作、河原温、桑山忠明などの、郷土の作家の作品を収集するとともに、「エコール・ド・パリ」「メキシコ・ルネサンス」「現代の美術」の3つの収集方針を加え、国際性を持たせています。建物の設計は、建築家黒川紀章のによるもので、代表作ともいわれています。(名古屋市美術館HP参照)
名古屋市美術館
プラネタリウムをメインとした「天文館」(1962年オープン)、物理・原理・技術といった内容を紹介する 「理工館」(1964年オープン)と、生命・生活・環境を紹介する「生命館」(1989年オープン)を持つ名古屋市の運営する科学館です。2011年03月19日にリニューアルオープンし、世界最大のプラネタリウムを備えています。
あいちトリエンナーレ2013 白川公園エリア
白川公園エリアでは名古屋市美術館に9名、若宮大通公園多目的広場に1名、計10名のアーティストの作品が展示されています。名古屋市美術館では、普段使用している北側の玄関とは別にトリエンナーレ用の出入り口を南側に設けるとともに、館内にも新たな階段を設置し、美術館そのものがこれまでと違った空間として再構成されています
外部リンク
あいちトリエンナーレ2013 白川公園エリア[Network2010]
大須観音
白川公園エリアでは名古屋市美術館に9名、若宮大通公園多目的広場に1名、計10名のアーティストの作品が展示されています。名古屋市美術館では、普段使用している北側の玄関とは別にトリエンナーレ用の出入り口を南側に設けるとともに、館内にも新たな階段を設置し、美術館そのものがこれまでと違った空間として再構成されています
外部リンク-大須観音[Network2010]
万松寺
古渡城主の織田信秀(信長の父)が天文九年(1540)に創建した曹洞宗の寺院。創建当時は、中区錦と丸の内にまたがる広大な敷地にありましたが、清洲越しで名古屋城下(碁盤割)を建設するため、現在地に移転しました。信秀の葬儀の際に信長が、位牌に抹香を投げつけた事件でも知られています。
西別院
浄土真宗本願寺派の寺院。東別院に対して西別院の名で呼ばれています。慶長14年(1609)の「清須越し」で名古屋に移転されました。文化14年(1817)葛飾北斎が境内で、120畳敷きの達磨の大画を描き注目を集めたことでも知られています。明治6年(1873)には、名古屋大学医学部の前身、医学講習所が境内に置かれました。
東別院
東別院は元禄3年(1690)、尾張藩主徳川光友より織田信長の父信秀の居城「古渡城」の跡地1万坪の寄進を 受けて建てられた真宗大谷派の寺院です。明治7年(1874)に博覧会が開かれたり、名古屋場内から愛知県庁が移転されたこともあります。日清戦争以降、兵舎がおかれたため昭和20年(1945)3月、空襲で全焼してしまいました。