明治~昭和初期の碁盤割

明治~昭和初期の碁盤割

明治時代に入っても、本町通と美濃路が分岐する伝馬町(旧美濃路名古屋宿)からが名古屋の中心でした。株式取引所や私立の銀行が繁華街の伝馬町界隈に本店をおきました。明治時代も半ばになり、名古屋駅(笹島)が開業し広小路が駅まで延長されると、名古屋市役所庁舎や県庁などの官庁が栄町周辺の広小路沿線に置かれました。明治時代の末には、焼失移転した市役所の跡地に、茶屋町から(株)いとう呉服店が近代的な百貨店を開業し名古屋のあたらしい繁華街としての位置を確立してゆきます。しかし本町通は名古屋を代表する道路として、昭和時代を迎えても沿線には、名古屋を代表する商店が軒を並べていました。


詳しくは下記の解説と関連映像(解説下)をご覧ください

茶屋町いとう呉服店

地階

いとう呉服店は、慶長16年(1611)本町で創業。万治2年(1659)に茶屋町で呉服小間物問屋を開業。明和5年(1768)念願の江戸に進出、上野の松坂屋を買収して、いとう松坂屋と名を改めました。明治43年(1910)栄町南西角に百貨店として移転するまで茶屋町で営業を続けました。
(鶴舞中央図書館蔵)

三井銀行名古屋支店

地階

明治5年(1872)に両替商として名古屋に進出した、三井銀行は、明治17年(1884) 当時の名古屋の中心であった伝馬町に洋風土蔵づくりの近代的な店舗を新築、 営業を開始しました。
(鶴舞中央図書館蔵)

名古屋銀行

地階

明治15年(1882)、伊藤銀行に続いて名古屋で二番目の私立銀行として開業しました。名古屋の商人が中心となり伝馬町店舗を置きました。
(鶴舞中央図書館蔵)

名古屋株式取引所

地階

明治19年(1886)に名古屋株式取引所設立、解散後の明治26年(1893)、株式会社名古屋株式取引所を設立。伝馬町に拠点を置きました。
(名古屋市市政資料館蔵)

名古屋国技館

地階

辰野金吾博士の設計で、大正3年(1914)に完成した名古屋国技館(現在の名城小学校)は、名実ともに 日本一の国技館でした、しかし人口40万人台の当時の名古屋では入場者数も伸びず、経営も困難になり開館10年も経たず閉鎖されました。
(映像塾蔵)

新愛知新聞

地階

明治21年(1888)に 創刊された新愛知は、大島宇吉により創刊された無題号を前身としています。金城たよりを前身とする名古屋新聞(明治39年創刊)とならぶ地元紙として競いあいましたが、戦時下の昭和17年(1942)に名古屋両新聞社と合併し、中部日本新聞社(現中日新聞)となりました。

滝兵商店

地階

宝暦元年(1751)古知野(現江南市)で、京呉服・絹織物卸商「絹屋兵右衛門」を開業したのが始まり。文政8年(1825)、二代目兵右衛門が名古屋市東万町に出店。その後尾張大納言家御用達を務め、尾張十人衆に数えられています。明治8年(1875)御幸本町4丁目へ進出、大正元年(1912)に株式会社滝兵商店を設立しました。
(鶴舞中央図書館蔵)

桜通完成前の姿

地階

昭和12年(1937)名古屋汎太平洋博覧会の開催に向け、新名古屋駅の建設が始まりました。 桜通は大津通から、名古屋新駅を東西につなぐ幹線道路として建設され昭和12年(1937)完成しました。 写真は、現在の伏見通と桜通が交差するあたり、菅原尋常小学校の校舎(右手前)と浄願寺の塀が 見えています。
(名古屋都市センタ-蔵)

愛知銀行

地階

明治29年(1896)に第十一国立銀行と第百三十四国立銀行を母体に設立されました。昭和16年(1941)に名古屋銀行、伊藤銀行と合併、東海銀行となります。現在の三菱東京UFJ銀行の前身の一つです。
(鶴舞中央図書館蔵)

掲載映像の紹介

①地図で見る明治- 昭和の碁盤割(3min48sec)

明治時代から昭和初期までの碁盤割地区(名古屋市中区丸の内、錦)の変遷を 地図資料と写真資料で紹介しています。

②戦前~戦後の体験を語る(8min37sec)

西区伏見町(現中区錦1丁目)で生まれ育った近藤敏子さんに女学校時代の思い出や町の変遷、戦争体験などを語っていただきました。(2009年11月収録)

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