上街道・下街道と東武家町

上街道と下街道

上街道は尾張藩が参勤交代の際、中山道に出るためつくられた 五街道並みの規格でつくられた官道。 名古屋城の東大手門から犬山の楽田を経て中山道伏見宿にいたる 十里八町(約40km)の道のり、犬山の楽田までは、稲置街道と重複し木曽街道とも呼ばれました。起点の名古屋城の東大手門から西に進み清水口の交差点を左折して国道41号を200mほど北上し国道から右に分岐し中山道に向かいます。
下街道は尾張藩公認の上街道に対して、裏街道として扱われ尾張藩は通行を禁じていました。しかし、山岳ルートが多く、距離の長い上街道にくらべ平坦で距離の短いことから、多くの通行人や荷物が下街道を利用しました。

東武家町と建中寺

名古屋城の東側にあたる白壁町、主税町、撞木町は、江戸時代の中級武士の屋敷が建ち並ぶ地域。妙道寺は、明治時代に500石取りの尾張藩士 高梨五左衛門邸跡地に建てられました。主税町(ちからまち)にある長屋門が、かろうじて当時の面影を偲ばせています。
建中寺は、尾張二代藩主光友が、父義直の菩提のために創建した尾張徳川家の菩提寺。歴代藩主の位牌を安置しています。総門・山門は、創建当時のもので、市指定文化財となっています。
建中寺の北にある徳川園は、二代目尾張藩主徳川光友公の隠居所として造営された 「池泉回遊式」といわれる大名庭園があった、13万坪の敷地を有する御屋敷。 光友公の没後、成瀬、渡辺、石河ら藩の重臣に譲られ屋敷が建てられました。


-詳しくは下記の解説と関連映像(解説下)をご覧ください-

無量寿院

地階

文化13年(1816)尾張徳川家が、もと武蔵国大久保村の尾張藩戸山屋敷地内に創建した浄土宗の寺院で精林庵といいました。安政3年(1856)七代藩主徳川宗春の菩提を弔うため、もと尾張藩御下屋敷地内北東の現在地に移設され、万延元年(1860)、今の寺号に改められました。(名古屋市教育委員会)

了義院 三日月塚

地階

芭蕉50回忌の寛保3年(1743)10月に、五条坊木児が建立したもので、碑面に 「有とあるたとへにも似ず三日の月」と「笈(おいずる)日記」の句形が刻して あります。この句には、「大曽根成就院(了義院前名)の帰るさに」という前書が あります。昭和24年10月、戦災で破損した原碑を原型に復し、別に新碑が建てられ ました。
(名古屋市教育委員会)

主税町長屋門

地階

典型的な武家屋敷門(長屋門)です。昭和46年頃、塀及び長屋の一部が撤去され現在の大きさになりましたが、江戸時代の門が当時の位置のまま残されています。大扉の東側に門番の部屋、西側に納屋があります。 平成16年、旧都市基盤整備公団(現都市再生機構)が修復し保存しました。
(文化のみち二葉館HPより)

高梨五左衛門邸跡

地階

名古屋城の東には、尾張藩の中級武士の屋敷が密集していました。高梨五左衛門邸跡は、禄高500石の尾張藩士、現在は妙道寺となっている境内には、それを記した石碑が建てられています。

建中寺

地階

浄土宗の名刹。慶安4年(1651)藩主光友が藩祖義直の為に建立しました。成誉廓呑上人を開基とし、以後尾張徳川家歴代の廟所となりました。江戸時代にはおよそ三丁半四方の境内地を持っていましたが、戦災後総門と三門の間を公園とし旧観の一部を失いました。徳川家霊廟は県指定有形文化財、総門、三門、鐘楼、御成門・本堂・経堂・開山堂・源正公廟は市指定有形文化財、徳興殿は国登録有形文化財となっています。
(文化のみち二葉館HPより)

徳川園

地階

名古屋城本丸の東約3kmの地にある徳川園は、徳川御三家筆頭である尾張藩第二代藩主光友公が、元禄8年(1695)に自らの隠居所として大曽根屋敷を造営したことを起源としています。当時の敷地は約13万坪(約44ha)の広さで、庭園内の泉水には16艇立の舟を浮かべたと言われています。。光友公の没後、この地は尾張藩家老職の成瀬、石河、渡邊三家に譲られましたが、明治22年(1889)からは尾張徳川家の邸宅となりました。昭和6年(1931)名古屋市は、第十九代当主義親氏から邸宅と庭園の寄付を受けた後、改修整備を行い、翌年「徳川園」として一般公開しましたが、第二次世界大戦の大空襲によってほとんどの建物や樹林などが焼失してしまいました。平成13年(2001)から日本庭園として再整備を行い、平成16年(2004)に開園しました。
(文化のみち二葉館HPより)

外部リンクー徳川園[Network2010]


-掲載動画の紹介-

①上街道・下街道と東武家町(2min33sec)

vG-Hhewd0jA