明治・大正時代の南寺町周辺
明治・大正時代の大須・橘町界隈
明治時代に入っても大須界隈は芝居の興行などが盛んな繁華街としてにぎわいました。明治4年(1871)には、総見寺で名古屋博覧会も開催されています。大須観音に近い北野新地に旭遊郭も復活し大正12年(1923)に中村へ移転するまで営業を続けました。明治25年(1893)3月宝生座からの出火により大須観音が全焼、本堂は再建されましたが、五重搭は再建されませんでした。明治43年(1910)に名古屋は、開府300年を迎え、あらたに造成された鶴舞公園で第十回関西府県連合共進会が開催され多くの来場者でにぎわいました。これにあわせて大須に商品陳列館が建設されました。
詳しくは下記の解説と関連映像(解説下)をご覧ください
木橋時代の納屋橋
堀川にかかる納屋橋は、名古屋停車場開業に合わせ拡幅されました。明治24(1892)の濃尾地震により被災、翌年改築されしました。木橋であった納屋橋を近代的な鉄石混用の橋に建て替える工事が明治末期より 行われ大正2年(1913)に完成しました。
(鶴舞中央図書館蔵)
愛知県立医学専門学校
明治4年(1871)に旧尾張藩の評定所・奉行所跡地(現在の愛知県産業貿易館所在地)に開設された 「仮病院・仮医学校」が起源。その後一時西本願寺掛所にありましたが明治10年(1877)、堀川の東岸天王崎町に移転しました。大正3年(1914)現在の名古屋大学医学部のある鶴舞に移転するまで医学教育の拠点となっていました。
(鶴舞中央図書館蔵)
濃尾地震罹災者(愛知病院)
明治24年(1891)日本史上最大級の直下型地震が発生し、濃尾地方に甚大な被害をもたらし濃尾地震と名づけられました。濃尾地震罹災者は、堀川端にあった愛知病院(名古屋大学医学部附属病院の前身)に収容され治療を受けました。
(鶴舞中央図書館蔵)
大須観音-焼失前
清須越により岐阜県の大須郷から転した大須観音は、明治時代に入っても「観音さん」の愛称で親しまれ、また大須の商店街は歓楽街として繁栄しました。明治25年(1893)3月宝生座からの出火により大須観音は、ほぼ全焼してしまいました。本堂は再建されましたが五重塔は再建されず現在にいたっています。
(鶴舞中央図書館蔵)
旭遊郭(花園町)
安政五年(1858)に出来た北野新地(大須観音の北)の遊郭は、明治7年(1874)に 大須観音の堂裏、堀川以東の五ヶ所に移転させられました。この時以来、大須界隈の遊郭を旭遊郭と呼ぶようになったようです。 大正12年(1923)旭遊郭は中村へ移転、その後大須は映画や演劇を中心とした娯楽街として発展しました。
(鶴舞中央図書館蔵)
東陽館庭園
岐阜出身の実業家山田才吉は、明治29年(1896)に料理旅館「東陽館」を開業しました。広大な庭園や 396畳の大広間を持つ巨大な娯楽施設は、人気を呼んびましが、明治36年(1903)に火災で焼失。その後も 才吉は南陽館(明治43年)、名古屋教育水族館、聚楽園(大正5年)などの観光施設を次々と建設しました。また守口漬の考案者としても知られています。
(鶴舞中央図書館蔵)
精進川の改修、新堀川建設
熱田神宮に参詣する人たちがこの川でみそぎをしたことからこの名(精進川)が付けられたと言われています。川筋が蛇行し洪水の原因ともなっていたので、明治16年(1883)運河に改修する計画が建てられ、明治43年(1910)新堀川が完成しました。
(名古屋市広報課蔵)
第十回関西府県連合共進会
明治40年(1907)11月、愛知県は第十回関西府県連合共進会の誘致を決定しました。関西府県連合共進会は、明治16年(1883)大阪府が主催して1府16県の参加で始まり、以後ほぼ3年おきに開催されてきました。 明治43年(1910)に名古屋市は開府300年の節目の年を迎え、市民の意気はもりあがり、名古屋市も公園と なることが決定されていた鶴舞の地を造成して会場として提供しました。
(名古屋市市政資料館蔵)
商品陳列館
愛知県商品陳列館は明治末期、第十回関西府県連合共進会の開催にあわせ商工業の振興を目的として 大須門前町に建てられたルネサンス様式の堂々たる建物。主に愛知県の工業製品が陳列されていました。しかし昭和9年(1934)に取り壊されてしました。
(鶴舞中央図書館蔵)
掲載映像の解説
①地図で見よう!明治時代の南寺町 (1min5sec)
江戸時代の南寺町(現在の栄2・大須・橘町周辺)をCGで紹介しています