江戸時代の古渡~熱田

江戸時代の古渡~熱田

橘町の本町通に設けられた大木戸を通り名古屋城下を出ると古渡村に入ります。山王神社の脇を通る小栗街道は、鎌倉街道の一部で本町通と交差しています。このあたりから人家もまばらで、ときおり本町通沿いに寺院や茶店が散見されるさびしい風景が熱田まで続きます。
尾頭にあった熱田神宮一の鳥居は、ひときわ大きく目を惹きました。鳥居の西、堀川沿いの沢観音妙安寺からの風景は絶品で名古屋三景のひとつに数えられていました。本町通は、熱田神宮の西側をとおり宮宿へと向かいます。熱田神宮は、三種の神器の草薙剣(くさなぎのつるぎ)をこの地に祀ったのが起源とされている伊勢神宮に次いで権威ある神社として知られています。
熱田神宮を過ぎ、源太夫社(上知我痲神社)の前で美濃路(本町通)は東海道と合流します。直進すれば七里の渡しへ、左に折れれば江戸へと向かいます。七里の渡しのある神戸(ごうど)には、高級な旅館が建ち並んで船待ち客や、名古屋城下の豪商、上級武士の接待を行っていました。


詳しくは下記の解説と関連映像(解説下)をご覧ください

小栗街道(旧鎌倉街道)-尾張名所図会デジタル着色

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鎌倉街道は京都と鎌倉を結ぶもので、別名「小栗街道」ともいわれました。萱津から庄内川を渡り、米野、露橋を経て古渡に至り山王神社と犬見堂の間を抜けて美濃路と交わります。絵図奥に見える古渡橋は、堀川に架かる七橋のひとつとして知られています。
(映像塾蔵)

熱田神宮一の鳥居-尾張名所図会デジタル着色

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熱田神宮のまわりには八つの鳥居がありました。そのなかでも尾頭にあった一の鳥居はひときは大きく、 三丈五尺(11.6m)もありました。現在は国道19号線(伏見通)の一部となっていますが、通脇にその跡を残す石碑が建てられています。
(映像塾蔵)

沢観音妙安寺-尾張名所図会デジタル着色

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商人であった津田富春が高蔵宮のそばで沢という所にあるさびれた観音堂の本尊を移して建てた臨済宗の寺院。熱田神宮の周辺にあった四観音のひとつで、堀川沿いにあり遠くは鈴鹿山系も望まれる名古屋三景のひとつでした。
(映像塾蔵)

白鳥山法持寺と御船蔵-尾張名所図会デジタル着色

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白鳥古墳は、5世紀末頃から6世紀前半頃に築造された前方後円墳で全長が約74m、最大幅25mの大きさ。 この古墳は、白鳥となってこの地に戻った、日本武尊の墓と伝えられています。法持寺は、9世紀初期に空海により建立されたのが始まりと伝えられている寺院。御船蔵は、名古屋城築城の資材を運ぶため福島正則により開削された堀川の西岸に材料置場・船置場として作られました。「太夫堀」とも呼ばれています。
(映像塾蔵)

熱田神宮と美濃路(本町通)-尾張名所図会デジタル着色

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美濃路は、源太夫社(上知我麻神社)の前で東海道と分岐し上伝馬町(美濃路名古屋宿)で西に折れて、清須、大垣を通り垂井で中山道に合流する脇往還として利用されました。熱田から名古屋宿までは本町通の一部として参勤交代時の大名が名古屋城を訪れる時は、本町通を通りました。本町通沿いにある誓願寺は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の誕生の地とも伝えられています。境内には産湯の井戸といわれる遺跡が残っています。
(映像塾蔵)

熱田神宮-尾張名所図会デジタル着色

地階

第12代景行天皇の御代に日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃の宮簀媛命(みやすひめのみこと)が、伊勢の国の能褒野(のぼの)で亡くなった日本武尊の遺品である三種の神器の草薙剣(くさなぎのつるぎ)をこの地に祀ったのが起源とされています。伊勢神宮に次いで権威ある神社として知られています。
(映像塾蔵)

熱田神宮 祈年祭夕供御-尾張名所図会デジタル着色

地階

春に先立って農林水産物の豊作を祈る大祭、一年間の五穀豊穣を祈る祭りです。供え物をいれた櫃(ひつ)を御供所から内陣へ運ぶ祭礼。大篝(かがり)の他、無数の灯火を点します。 秋の新嘗祭(にいなめさい)も同じ内容で行われています。
(映像塾蔵)

大瀬古魚の市-尾張名所図会デジタル着色

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現在の熱田区木之免町、大瀬子公園のあたり。近海の魚類はもとより、遠近諸国からは船で、三河の 吉田からは徒歩で運ばれた魚を尾張藩指定の六軒の問屋が朝と夕に開かれる市で売りさばいていました。
(映像塾蔵)

姥堂と裁断橋-尾張名所図会デジタル着色

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姥堂は、その昔、川でおぼれた僧侶の衣服を盗んだ老婆がそのたたりで死に、さまよう霊を供養して縁者が 奪衣婆の像を姥堂に安置しといわれています。裁断橋は、小田原攻めに出陣、病死した堀尾金助の母が息子を見送った裁断橋の修築を行い、欄干の擬宝珠(ぎぼし)に銘文を刻んだことで知られています。
(映像塾蔵)

源太夫社(上知我痲神社)-尾張名所図会デジタル着色

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上知我痲神社は古くから知恵の神様として崇敬を集め、「知恵の文殊さま」とも呼ばれています。現在は熱田神宮境内に移転されていますが、江戸時代は東海道と美濃路が分岐する宮宿にあり、高札場などの 置かれて、旅人に案内を行っていました。
(映像塾蔵)

七里の渡し渡船場-尾張名所図会デジタル着色

地階

七里の渡しは宮宿から桑名宿まで船で渡る東海道で唯一の海上路でした。その距離が七里であったことから 七里の渡しとよばれました。満潮時には沿岸に浮かぶ島をぬうように、干潮のときは沖まで小舟で行き帆かけ 舟に乗って桑名まで海路で京に向かいました。図絵右手の建物は、海を埋め立てて作られた、尾張藩の 迎賓館、東浜御殿。
(映像塾蔵)

掲載映像の紹介

掲載映像の解説

①地図で見よう!江戸時代の古渡~熱田 (59sec)

江戸時代の古渡~熱田をCGで紹介しています

②東海道宮宿(5min22sec)

東海道の宮宿は、東海道の宿のなかでも最大の規模を誇っていました。古くは熱田神宮の門前町として 繁栄し、東海道が出来てからは東海道唯一の海路、七里の渡しの西の渡船場を持つ宿として、旅館が建ち並び、船待ち客や、名古屋城下から遊びに来た人々でにぎわいました。

③佐屋街道(4min13sec)

佐屋街道は、宮宿と桑名宿を結ぶ東海道の脇往還として明治時代初頭まで 非常に賑わいました。岩塚、万場、神守、そして佐屋宿と四つの宿場を経て佐屋「三里の渡し」で佐屋川を下り桑名宿へといたります。

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