南寺町-江戸時代
江戸時代の南寺町
名古屋城下が築かれた江戸時代初期には、名古屋の主だった町人は碁盤割のなかで生活していました。 碁盤割の南、橘町までの本町通周辺には大小の寺院が建設され南寺町と呼ばれていました。清須越しによって真福寺(大須観音)が、羽島市大須から移転、その地名にちなみこの界隈を大須と呼ぶようになりました。また、町の活性を図るため芝居小屋や遊郭などの設置を認めしだいに城下の歓楽街としての地位を築きました。二代藩主光友が名づけた橘町は、名古屋城下の南端の刑場もおかれた寂しい場所でしたが、刑場の移転や芝居小屋の建設などを行いしだいに活気ある場所になっていきました。
-詳しくは下記の解説と関連映像(解説下)をご覧ください-
広井三蔵(尾張藩米蔵)
福島正則は小田原の北条攻めに出陣し兵糧不足を経験しました。その教訓から清州城内に三つの大きな 食糧庫を建設します。清州越しで藩都が名古屋に移ると、納屋橋の南の堀川東岸に米蔵を建設し 尾張藩の官倉(米蔵)としました。倉の数は以前より増しましたが、昔どおり三倉と呼ばれました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
天王崎(堀川)
その昔、堀川の西まで海が迫り航行の安全を祈願するため洲崎神社が創建され、牛頭天王社に ちなみ天王崎と呼ばれました。対岸の左手前の法蔵寺の境内にある八角堂は、尾張藩初代藩主 が名古屋城二之丸御庭に建てたわが国初めての聖堂という「金声玉振閣」を七代藩主宗春が 法蔵寺に移転したものです。戦災で焼失しましたが、平成16年(2004)に再建されました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
南寺町寺院群
現在の白川公園あたりには、十王堂、隆正寺、光明寺、願故院、寿経寺、誓願寺、養林寺、大林寺、 芳春院、西光院、法應寺、西光院、仙昌院、宝珠院、大運寺、尋盛寺、瑞宝寺、法蔵寺、徳林寺などの寺が建設されました。太平洋戦争末期に市内各所に移転され、戦後の一時期は進駐軍の宿舎になったこともあります。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
若宮八幡宮
8世紀初頭に名古屋城三の丸の地に創建されたと伝わっています。三之丸天王社(現在の那古野神社)に 隣接していました。慶長15年(1610)に名古屋城築城のため現在地に移転されました。例祭である若宮祭は 名古屋東照宮の東照宮祭、天王社の天王祭とならんで名古屋三大祭と言われました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
総見寺
織田信長は本能寺の変で亡くなりました。信長の次男信雄は、父の霊を弔うため伊勢国大島村にあった 安国寺を清洲に移し総見寺と改名して再興しました。「清州越し」により慶長15年(1610)名古屋に 移転されました。門前町とは総見寺門前を意味します。また境内には信長公、信雄公の廟が置かれています。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
万松寺
織田信長の父信秀が雲興寺八世・大雲永瑞和尚を開山に迎え名古屋村(現在の中区錦と丸の内2丁目・3丁目あたり) に建立した曹洞宗の寺院。信秀の葬儀の日、信長は抹香を仏前に投げつけ「大うつけ」と呼ばれた話は有名です。慶長15年(1610)名古屋城下建設のため現在地に移転。境内には信秀の墓所があります。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
清寿院と大須門前町
那古の山古墳(前方後円墳)の場所に修験道の寺院であった清寿院が建っていました。修験道の道場として有名で広大な敷地を持っていました。また、数多くの芝居小屋がこの周辺に集まり、大変なにぎわいであったと伝えられています。明治維新を迎え清寿院は廃寺となり、その後市内で最初の浪越公園なりました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
大須観音真福寺
元弘3年(1333)に現在の羽島市の大須郷に僧能信が創建したのが始まりです。慶長17年(1612)に徳川家康の 命令で犬山城主の成瀬正茂によって現在地に移転されました。『古事記』の最古写本をはじめとする貴重書を 多数蔵する「真福寺文庫」が境内に置かれています。大須奉納馬の頭は、もともとは桶狭間の合戦での 織田信長公の勝利を喜んだ地元の人たちが飾り馬を引いてお祝いに駆けつけた事を発祥とする、 郷土の祭礼行事です。大須観音と馬とは昔から大変縁が深いと言われています。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
七ッ寺長福寺
天平7年(735)尾張国中島郡に行基によって創建されたと伝えられています。戦火や天災で荒廃しましたが、 天正19年(1591)、清洲城下に再建され、清洲越しによって現在地に移転されました。境内には、 二代藩主徳川光友により寄進された三重の塔が建っていました。重要文化財の観音、勢至の脇二尊座像や 『一切経』参千余巻を所蔵しています。境内の茶店では庭園を楽しみながら参詣客が時を過ごしました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
桜の名所日置橋
日置橋から北、数町にわたって堀川の両岸には数百本の桜が植えられていました。花見時になると多くの 見物客でにぎわいました。名古屋城下を代表する景勝地であったと言われています。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
西本願寺掛所
浄土真宗本願寺派の寺院。東別院に対して西別院の名で呼ばれています。慶長14年(1609)の「清須越し」で 名古屋に移転されました。文化14年(1817)葛飾北斎が境内で、120畳敷きの達磨の大画を描き注目を集めたことは有名。また明治6年(1873)、名古屋大学医学部の前身、医学講習所が境内に置かれました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
黄檗宗 東輪寺
延宝2年(1674)に尾張二代藩主徳川光友公によって、名古屋の裏鬼門を守護するため、高僧・即非如一禅師を 勧請し創建された禅宗の一派黄檗宗の寺院。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
本町通大木戸と芝居地橘座
橘町は、名古屋城下の南端で城下の境界を示す大木戸が本町通に設けられていました。もともと刑場のあった寂しい場所でしたが、尾張二代藩主徳川光友はここに町を建設しようと考えて切支丹の処刑も行われた刑場を土器野(清須市)に移転、霊を弔うため栄国寺を建立しました。また、町のにぎわいをはかるため芝居小屋橘座を建設、7代藩主宗春の時代には、橘町は商業地であると同時に、芝居小屋などが立ち並ぶ繁華街となりました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
東別院掛所
東別院は元禄3年(16909、尾張藩主徳川光友により織田信長の父信秀の居城「古渡城」の跡地1万坪の寄進を受けて建てられました。東西は本町通から200mほど東から、現在の大津通までの敷地を持ち、尾張地方では古くから 親しみをこめて「御坊さん」と呼ばれてきました。本堂、山門などは、太平洋戦争の空襲で焼失、昭和37(1962) 再建されました。
(映像塾蔵-尾張名所図会デジタル着色)
掲載映像の解説
①地図で見よう!江戸時代の南寺町 (1min5sec)
江戸時代の南寺町(現在の白川・大須・橘町周辺)をCGで紹介しています
②大須観音(3min43sec)
元弘3年(1333)に現在の羽島市の大須郷に僧能信が創建したのが始まり。慶長17年(1612)に徳川家康の命令で犬山城主の成瀬正茂によって現在地に移転しました。『古事記』の最古写本をはじめとする貴重書を多数蔵する「真福寺文庫」を所蔵しています。大須観音の岡部快圓貫主に解説していただきました。