広小路-江戸~昭和初期

広小路の変遷

徳川家康は名古屋城下建設時、名古屋城の南の区域を碁盤の目のように区画し「碁盤割」と呼ばれました。広小路の前身の堀切筋は碁盤割の南端の道幅三間(3.64m)の城下中心部とその南に位置した寺町を区切る境界線でもありました。そのため堀切筋の南側には、獄舎もおかれていました。万治3年(1660)万治の大火と呼ばれる大火事が発生し城下町の大半を焼き尽くし、それを契機に久屋町から長者町までの区間が4倍以上拡幅され広小路が建設されました。


詳しくは下記の解説と関連映像(解説下)をご覧ください

名古屋郵便局と名古屋電信局

地階

広小路本町交差点の東南角に明治4年名古屋郵便役所が出来、明治8年(1875)に名古屋郵便局と改称されました。明治20年(1887)、鉄砲町の名古屋郵便局は、大垣の郵便局として移築され、名古屋郵便局は、栄町に新しい庁舎を建設し移転しました。
(鶴舞中央図書館蔵)

御園座こけら落とし

地階

明治座を手本に名古屋で最初の大劇場「御園座」が落成しました。明治29年(1896)、こけら落とし興行 が行われ、出演者は初代市川左団次を筆頭に市川権十郎、坂東八十助(後の七代目三津五郎)などで、演目は「浜真砂蒔絵高島」「鎌倉山鶴朝比奈」「有情恵景清」「御園開花賑」が上演されました。明治32年(1899)には名古屋で初の活動写真も上映されました。
(鶴舞中央図書館蔵)

日露戦争戦勝記念広小路凱旋門

地階

明治37(1904)2月に始まった日露戦争は、ポーツマス条約の講和により明治38(1905)の9月に終わりました。 日本の勝利を祝う凱旋歓迎会が各地で行われ広小路本町にも路面電車の軌道をまたぐように凱旋門が つくられました。
(名古屋市市政資料館蔵)

栄町に移転した(株)いとう呉服店

地階

慶長16年(1611)本町で創業。万治2年(1659)に茶屋町で呉服小間物問屋を開業し 明和5年(1768)念願の江戸に進出、上野の松坂屋を買収して、いとう松坂屋と名を改めました。明治43年(1910)いとう呉服店は焼失した名古屋市役所の跡地、栄町交差点南西角に茶屋町より移転し、株式会社いとう呉服店として開業。名古屋で初めての3階建ての近代的な百貨店として営業を始めました。
(名古屋市市政資料館蔵)

広小路名古屋ホテル

地階

支那忠についで、明治28年(1895)竪三ツ蔵町に木造洋館の名古屋ホテルが建ちました。このホテルは 和室の上等は二円、洋室は五円五十銭でした。中等は和室一円五十銭、洋室四円五十銭。昼食代は和食の上等は五十銭、洋食は一円七十五銭でした。(沢井鈴一著:広小路物語より)写真は、増築された名古屋ホテル(昭和初期)。
(名古屋市市政資料館蔵)

(株)名古屋観光ホテル

地階

広小路に面して建つ名古屋観光ホテルは、名古屋に国際級のホテルを造りたいと提唱し、名古屋財界が総力をあげて建てたものです。昭和9年(1934)9月14日、株式会社名古屋観光ホテルが正式に発足しました。取締役社長は青木鎌太郎、豊田利三郎、高橋正彦、白石勝彦、白木周次郎、広瀬宗光、 加藤勝太郎の名古屋財界の錚々たるメンバーが取締役として名を連らねました。
(沢井鈴一著:広小路物語より)

御大典奉祝記念凱旋門-広小路本町

地階

大正天皇が崩御、昭和天皇が即位され昭和の御世になりました。全国各地でこれを祝う行事が行われ、 名古屋でも鶴舞公園で御大典奉祝名古屋博覧会が昭和3年(1928)9月15日から11月30日までの77日間の 会期で開催されました。広小路本町にも市電の軌道をまたぐように御大典奉祝記念凱旋門がつくられました。
(名古屋市市政資料館蔵)

御幸本町と呼ばれるようになった本町通

地階

昭和3年(1928)昭和天皇行幸にあわせて、本町通は舗装され、幅員も14.5mに広げられました。舗装道路化された本町通りは、この時より御幸本通りと改称され、また町名も、本町改め御幸本町と呼ばれるようになりました。
(鶴舞中央図書館蔵)

広小路-村瀬銀行、名古屋銀行、愛国生命ビル

地階

昭和9年(1934)に名古屋の人口は100万人を突破。かって名古屋の商業の中心であった伝馬町から銀行などが 広小路沿線に移転し、ビルが建ちならぶようになりました。写真右から村瀬銀行、名古屋銀行(現三菱東京UFJ銀行)、愛国生命が並んでいます。
(鶴舞中央図書館蔵)

掲載映像の紹介

①地図で見る広小路の変遷(6min32sec)

江戸時代初期に碁盤割南端の堀切筋を拡張して広小路が作られました。 以後、現在にいたるまで、名古屋市を東西に縦貫する基幹道路となっています。 その変遷を地図資料と写真で紹介しています。。

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