堀川を行く1-朝日橋~納屋橋
詳しくは下記の解説と関連映像(解説下)をご覧ください
堀川開削当初の北端は、朝日橋の堀留でした。名古屋城の堀の水源は、築城当時は湧水によってまかなわれていまいした。しかし、50年程で枯渇し、その対策として御用水が開削されました。当初は矢田川から取水していましたが、矢田川川底の下をトンネル(伏越)で通し導水しました。堀から溢れた水は、辰之口水道大樋を通り堀川に注ぎ込んでいました。
朝日橋の堀留跡を出発、外堀通が通る景雲橋を過ぎると五条橋が見えて来ます。このあたりから堀川に平行するように中橋あたりまで、堀川右岸を通る四間道周辺には、多くの文化遺産が残っています。四間道は、元禄13年(1700)の大火の後、尾張藩4代藩主徳川吉通が、防火のため道路を拡幅して、四間(約7m)にしたことからこの名の由来となりました。四間道にある、伊藤家は、清洲越の商家である「川伊藤家」の分家にあたり、江戸時代には、尾張藩の御用商人を務めました。(文化財ナビ愛知)また、石垣の上に建つ土蔵群が並び江戸時代の面影を残す、景観地区となっています。家屋の一階ひさし屋根や軒下などに設置された屋根神様は、秋葉信仰や天王信仰にもとずき、火災や疫病除けを祈願したものです。
中橋は、五条橋と伝馬橋の中間にあることからこの名が付いたと言われています。伝馬橋は、伝馬会所から本町通と分岐する美濃路が通っています。美濃路は伝馬橋を渡ってから堀川を北上、押切、枇杷島、清須、稲葉、荻原、起、墨俣、大垣を経由して垂井で中山道と合流しています。伝馬会所は、本陣・脇本陣などはありませんでしたが、美濃路の名古屋宿として名古屋でも有数の商業の中心地でした。明治時代に入っても銀行の本店や株式取引所が置かれ、また円頓寺の商店街へのアクセス路として伝馬橋が使われました。
納屋橋は、広小路が通る名古屋を代表する橋。広小路は江戸時代初期、万治の大火で碁盤割南端の堀切筋が拡幅されて出来たもので、江戸時代は長者町までしたが、明治時代の半ばに名古屋駅が笹島に開業するため延長拡幅されました。旧加藤商会ビルは、外米の扱いなど貿易商で成功した加藤勝太郎氏が本社ビルとして大正5年(1916)に建築、昭和6(1931)にレンガ造りから鉄筋コンクリートのビルに建て替えられました。また、加藤勝太郎氏がシャム国(現在のタイ王国)の名誉領事であったことから領事館も置かれていました。現在は、寄贈を受けた名古屋市の所有となっており、国の登録有形文化財に登録されています。